Wandering JinBe

全国各地・各業界を放浪するJinBe(じんべえ)の総合的なBlog

【過去Blog/体験談】The Origin of Def Fect

 
 こちらの記事は、以前にDance用のアカウントでアンケートを取りました「Def Fectに関わったこと」についての内容となっております。現在、様々なコミュニティに関わっておりますが、自分の原点となった体験談です。
 栃木県内のストリートダンスサークル部員や周辺の大学生にむけての記事となりますが、そういった事項を知らない方でも読みやすいように書かせて頂きました。
 (2016年8月24日掲載:表現方法や文章の改変は行っていません)

”Defcet 名詞:欠陥、欠点、弱点”
 
“Def Fect 名詞;栃木県学生ダンス連盟の名称。
(Def = かっこいい、素晴らしい・Fect = 影響を及ぼす、事象を発生させる。)
2つの意味を足した造語。
常に素晴らしい物事を生み出し、周りに波及されることの出来る団体になることを願って名付けられた。名付け親は、doocleのSである。            

 

 

  2010年に「組織」として正式発足した栃木県学生ダンス連盟”Def Fect”は、今年で7年目を迎えました。栃木県内に存在する大学のストリートダンスサークルが一丸となって活動し、他大学との交流やイベント開催などを実施しています。
 発足当時は80名弱ほどの人数でしたが、各大学サークルの人数の増加に伴って、現在ではさらに大きな団体となりました。
 

(Def Fect発足当時のロゴ:mixiのコミニティロゴから引用)
 
 宇都宮大学「doocle」・白鴎大学「EXA」・国際医療福祉大学「I.D.C」…栃木県内に存在する大きなストリートダンスサークルが中心となっていますが、自治医科大学MORL、獨協医科大学、また、栃木県内のストリートダンサーも入り混じり、日々、進化し続ける団体となっています。
 
 活動内容も年を重ねるごとに多岐にわたり、群馬県大学生ダンス連盟Make a Chinとの合同イベントの開催や茨城県の大学生との交流イベントなど北関東を中心に様々なイベントで活躍しています。
 
 今から書いていくお話は…「Def Fect」が出来上がる前の話。そして、どうなって出来上がっていったのか?という誕生秘話です。ただし、この記事の視点は、その当時の全員の話を集約したものではなく、Def Fectに関わった「じんべえ」という一人のダンサーからのものです。
 
 この記事を書くために、当時のSNSにあったブログや自分のノートの日記10年分を再度読み返しました。過去の資料に目を通すと恥ずかしいことばかりで、顔から火が出そうです。ただ、積み重ねていった時間は、現在の自分自身を構築しています。
 
 栃木県を離れて3年。今更、こんなことを書いてもしょうがないのかもしれません。
 ただ、今でも聞くDef fectの話や青森県や他地域の大学生との交流の中で「自分自身の経験がもしかしたら、参考になるかもしれない」と感じ、記事の投稿を決意しました。生粋のストリートダンサーから見れば、甘えだらけの経験だったかもしれません。しかし、多くの人々との関わり、たくさんの経験を出来たことは、自分の財産でもあります。
 
 今から書く話は、ただの”昔話”。
 
 現役の子たちには関係ない話かもしれません。しかし、この記事は、”大学生”の時にダンスと出会い、そして、たくさんのことを得た人間の体験談です。何かあなたのヒントになることが埋もれているかもしれません。”Defcet”だらけだった”じんべえ”が、”Def Fect”に関わった体験談です。もし、よければ、目を通してみてください。
 

謝辞―記事投稿に関して―

 今回の記事の投稿・作成に関して、最初に国際医療福祉大学OB・T、白鴎大学OB・Mに深く感謝致します。あなた方がいてくれたおかげで、私は楽しいダンサー生活、そして、たくさんの素晴らしい後輩たちに出会うことが出来ました。故郷に戻り、こうやって人生を送ることが出来るのもあなた方のおかげです。本当にありがとうございました。
 
 次に今まで”Def Fcet”を通して、私を成長させてくれたすべての後輩たち、同輩、そして先輩方に感謝致します。ありがとうございました。また、踊りあえる日を楽しみにしています。
 
 そして、これからのDef Fectの更なる発展と、現役の子たちがいつでも笑顔でダンスを出来ること、そして、未来へつながる多くの経験を出来るを願って、本文に入らせて頂きます。

 ここから書く話の名前に関しては、すべて本名・ダンサーネームのイニシャルとさせて頂きます。
 

始まりの鐘は鳴る

 1 Name the greatest of all inventors. Accident.(最も素晴らしい発明家は、「偶然」である。)

  2009年10月31日。栃木県宇都宮市で最も大きなクラブ「BASQ」。
 その日は、ダンスイベント「Vanilla」が開催されていた。当時、現在のように”ハロウィン”という行事がまだメジャーになる前だったが、”催し”として仮装コンテストが実施され、イベントは仮装した一般客で溢れかえっていた。
 
 10月の末日ということで、学生ダンサーたちは、それぞれの大学の学祭に向けて、練習を重ねる時期だった。そのため、いつもよりも学生ダンサーの数は少なく、フロアで踊る人も少なかった。
 
 時間が流れ、仮装コンテストも終わり、South HipHopが流れ始めた頃、ショーケースの出演者控室では、着替えをする者、話に花を咲かせる者…ダンサーたちが疲れを癒しながら、イベントの余韻を楽しんでいた。深夜3:00を過ぎ、「もう明日のことを考えて帰ろうか…」。そんな声も聞こえてくる。
 
 控え室に残っていた学生ダンサーは、その日のショーケースに出演した白鴎大学EXAのPOPPINチーム、国際医療福祉大学のFreestyleのコンビCとY、遊びにきていた”じんべえ”と国際医療福祉大学のTだった。
 男ばかりの若いダンサーが集まれば、必然的に”ダンス”の話になる。「あーだこーだ・・・」とざっくばらんに話をしながら、それぞれが「ダンスをもっと上手くなるためには?」を模索していた。
 
 「一回、POPPINの”練習会”やりません?、自分もやってみたいですし・・・」
 話が進んでいく中でTがそんな提案をした。
 「いいね、それ!」
 Cが呼応し、EXAのPOPPINチームの面々も賛同していく。一年生だったYも、どこかはニヤニヤとした笑顔になって、静かに頷いていた。
 (練習会の開催か・・・面白いかもしれない)
 自分自身もそんなことを考えながら、EXAのMと連絡先を交換した。
 
 具体案の調整は後日。”新しいこと”が始まる。
 この控え室で生まれた小さな練習会の話が後の大きなうねりとなっていくことをまだ私たちは知る由もなかった。
 

2 The pessimist complains about the wind(悲観主義者は、風に恨み言を言う)

  ”じんべえ”がストリートダンスを始めて、4年の歳月が流れていた。1年生を棒に振り、2年生を慌ただしく過ごした。3年生ではジャンルリーダーも経験したが、何も残すことが出来なかった。
 
 ストリートダンスを始めたきっかけは、高校時代に付き合っていたダンサーの彼女の影響だった。「同じ世界を知りたい」そのために始めたダンスは、今や自分の生活の一部になっていた。
 当たり前のように体育館へ練習に向かい、ひたすら練習を繰り返す。熱中している訳ではなかった。何かしていなければ、押しつぶされそうな気持ちになるからだ。
 
 高校時代に部活に打ち込んだが、ケガのため、レギュラーになることが出来なかった。受験でも希望の大学に入学することは出来ず、1年生の時は隠れ浪人をする始末。そんな中でサークル活動を放棄した1年生のとき、同輩たちが学祭で踊る姿に感動したのだった。
 「先輩たちと同じようにかっこよく踊っている。自分もあんな風になりたい!」
 そんな気持ちで再開したダンスだったが、2年生から始めたような自分にとって、後輩を指導しつつ、自分自身の練習を繰り返す日々は楽しくも辛い時間だった。
 
 そして、何よりも先輩方に負けたくなかった。
 
 一つ上の先輩とは、昔から因縁があるように思える。昔から一つ上の先輩たちに何事も勝つことが出来なかった。「大学では負けたくない!」そう思いながら、ひたすらに練習を繰り返した。思い返すと、長いdoocleの歴史の中で最強メンバーが揃う世代である。そんな人たちを追い抜こうとするのだから、並大抵のことではない。
 
 サークルの楽しい合宿にも行かず、飲み会にも参加せず、すべてを練習に費やした。いや、費やした”つもり”だった。結局、実力もつかず、ただ自分を自分で追い詰めるだけの世界にいた。
 
 そんな中にいたら、心もおかしくなる。先輩だけでなく、後輩すら疎ましく感じた。自分ではなく、先輩を慕う後輩たちを。当たり前のことなのだが、何も気が付かず、そんな中でひたすらに力を求めた。
 
 そんな学生生活をしているうちに4年生となっていた。当時の学科抗争にも負け、ただ社会に出ることを待つだけの身となっていた。焦燥感が自分を襲う。うわ言のように「これでいいのか?これでいいのか?」と繰り返す。
 
 幻聴さえ、聞こえるようになった4年生の6月。
「先輩方に勝たなければ・・・社会に出ても負け犬のような気がする」
 そんな気持ちを自分の中に渦巻いていた。気持ちを払拭したくて、大学を休学し、”自分を取り戻す”ことを目標にした。単位も足りている、あとは卒業論文だけ…そんな状況である。卒業するよりも、その時は自分を取り戻すことの方が大切だった。
 
 ”自分を取り戻す”と書いたが、何をもってそれを成したと言えるのか?
 未だによくわかっていない。ノート1ページ分に”取り戻す”と書かれた日記は、今、見直すと気持ち悪いとしか感じない。
 
 こうして、嫉妬と焦燥感によって生まれた”じんべえ”は、足の爪が割れ、血がにじみ出る靴下を履きながら、練習を繰り返していくこととなる。
 

3 Before the world(Def Fect誕生前の世界)

  第2次ダンスブーム*1と呼ばれる日本におけるダンスの再流行が始まり、栃木県にもその波が到来した。 
 
 栃木県においては、「SC Crew」という最古のチームがオールド・スクールを中心に活動し、現在の大御所のダンサーたちの先駆けになったと聞いている。*2
 
 その当時に「ストリートダンス」に興味持った諸先輩方から大学におけるダンス活動が始まった。聞いている話から推測するに栃木県のダンスサークルにおいて最も古い活動が始まったのはは白鴎大学のEXAであり、その後、宇都宮大学doocleが正式にサークルに認可されたようだ。国際医療福祉大学I.D.Cにおいては、ストリートダンスが始まりではなく、Jazzダンスのサークルから始まり、その後、ストリートダンスが加わる形で現在の形になっていった。その名残として「ハーモニーホール公演」が現在も続けられている。*3
 
 じんべえが1年生の当時、各大学にストリートダンスサークルが存在していたが、交流はほとんどなかった。どちらかと言えば、大学ごとのつながりよりもストリートダンサーとの関わりを大事にしており、doocleにおいては茨城大学や関東ダンス連盟シグマなど他地域との交流の方が盛んであった。クラブシーンとのつながりを大切にする気風があったように思える。
 
 当時のクラブイベントにおいて、I.D.CのLOCKINチームをショーケースで見たことがあった。自分の大学以外のLOCKINチームを見ることが初めてだった自分は驚き、先輩に他大学にダンスサークルがあるのかを訪ねてみた所、「あういう奴らもいるよ」くらいの軽い反応だった。
 
 YouTubeや情報ツールが現在よりも発達していなかった当時は、交流することよりも独自の自分たちのダンスを追求すること、また、サークルとしての特色を高めた時期であったように感じている。
 その後、ダンスバトルが開催されるようになった際に多少の交流や大学生ダンサーたちの顔見知りが増えていくのだったが、具体的な交流は存在しなかった。
 
 じんべえ自身も、2年生の時にストリートダンサーとの交流が始まり、その際に宇都宮駅という練習場所で埼玉の大学にかよっていたTやアメリカ活動中のT、そして、白鴎大学のSと出会った。大学生同士の交流であったが、本人たちはストリート仲間という意識の方が高かったように思える。
 

4 A wise man will make more opportunities than he finds.(賢者はチャンスを見つけるよりも、みずからチャンスを創りだす)

  そんな状況であった時に、行動を開始した者がいた。Def Fectの創設者の一人となったI.D.CのOBのTである。Def Fect創設に関わることになったTだったが、その行動が大きな時代の流れになるとは思っていなかったんじゃないかな?
 
 ある日、じんべえが体育館に練習に行くと…見知らぬ男がLOCKINを踊っていた。doocleは茨城大学とのつながりもあったので、その時点では栃木県のダンサーではなく、茨城の誰かが遊びに来ていたのだと思っていた。
 次の日の練習に行ってもまた練習している…そして、次の週にもいる。
 
 うーん、茨城の大学生が頻繁にこんなに宇都宮にいるのだろうか?
 
 そんな疑問を抱えつつ、周りの話を聞いてみると、国際医療福祉大学のLOCKERであったことが分かった。ちなみにこの時点は本人とはあまり話が出来ておらず、その時点では「大田原市という場所に大学があったのか!」という驚きの方が強かった。*4
 
 そんな交流が始まった当時、夏休み終わりにあるイベントがあった。文星芸術大学で開催されたFreestyle 2on2 Dance  battleである。なんのきっかけで開催されたかは不明だったが、doocleの先輩たち、同輩、そして、I.D.CのPOPPIN、LOCKINのチームがこのバトルに参加した。
 学祭の企画として行われたもので、DJサークルの主催である。ジャッジもDJというある意味面白い企画だった。先輩の車に乗せられてその場所につくと見知らぬ男たちがダンスの練習をしている。Tも混ざり練習をしていた。
 「あんなに練習しているのだ。絶対に負けたくない。」
  ”夏休みの練習を終え、自分のレベルは上がっている、そう信じたい。先輩たちに勝つ!”そんな気持ちなので、とりあえず敵視していた。
 
 ダンスバトル自体の結果は準優勝。優勝は先輩と同輩のチームだった。
 自分自身に実力がついたのか…?それなりの結果を得たが、そんな疑問が自分の中に巡っていた。「勝てたはずでは?」そんな考えが堂々巡りし、なんだか落胆してしまった。
 
 そんな元気をなくした自分に声をかけたのが、Tだった。
「じんべえさんと話してみたいって思っていたんですよね。ダンスかっこいいじゃないですか!ちょっと飯食いに行きません??」
 それまで話をしたことがあまりなかった僕は少し驚いた。それと同時に嬉しかった。自分のことが少し認められたような気がして…
 
 様々な内面の葛藤があった自分にとって、”結果”を得ることが心の安らぎになると信じていた。しかし、それは狭い世界の自分の価値観だ。
 だが、そういった交流の中で他人から認めてもらえること、また、様々な意見や価値観を交わすことが大切だということを知ることが出来た経験だった。
 
 Tの行動のおかげで自分は新しい価値観を得て、そして、新世界へ進む切符を手に入れたのだった。
 

5 My life didn’t please me, so I created my life.(私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造したの)

  Tとの交流によって、国際医療福祉大学との距離が縮まった。そして、そんな中で自分の心の指針となったある後輩との出会いを果たすことになる。
 
 6月のことだった。Tに誘われ、I.D.Cが開催する新入生歓迎向けイベント「ユナイテッド」に遊びに行くことになった。じんべえ自身、他の大学のイベントに行くことは初めてのことで、自分のサークルと違う様々なショーケースが見れるとウキウキしていた。サークルの形式もダンスも全く異なるイベントである。なにか面白いことが出来るではと感じていた。
 
 道を迷いながら、遊びに行ってみると…想像していたよりも明るい世界がそこにあった。*5みんな笑顔で踊り、イベントを楽しんでいる。それになんだか、綺麗な世界だ。自分のいるサークルとは少し違うサークルのイメージを体感した。
 
 イベントが終わり、Tがある男をじんべえの前に連れてきた。
「こいつ、高校の時にもダンスしていて、見どころあるんすよ!」
「…どうも…Yっていいます…よろしく、く…おねがいします」
 ヒョロヒョロで1年生らしい弱々しい雰囲気であったが、なにか仕出かしそうな雰囲気を持つY。この出会いから長い付き合いになると思ってもみなかった。
 
 少し話が飛ぶが…後にPOPPINの指導や色々な経験をYに話すことになる。
 Yはその後、1年生ながら、様々なイベントに参加をし、また、色々な出会いやサークルに変革を加えていくパイオニアとなった。
 POPPINというものは、Yが一年生当時にI.D.Cではジャンルとして成立しておらず、また現在のサークルの指導形式は異なっていた。*6Yが部長となった際にPOPPINとしてのジャンルを確立し、その後、彼は指導形式の変更を行い、現在の形へ移行させた節目を作った人物である。
 
 Yとの出会いによって、僕の頭の中に「練習方法やダンス情報をどうやって共有していくか?」という新しい課題が生まれた。
 
 ストリートダンスの文化の側面として、「自分だけの何かを大事にする」という性質がある。これはとても大切なことであり、自分だけの技・魅力・考え方・心を持つことは非常に大きな武器となり、自分の宝になる。そういった気質の中で最低限の情報共有を得て、”個”としてのダンスの追求が重要となる。しかしながら、そういった追求をするためにもある程度の”知識”や”情報”は大切である。
 
 Tとの交流、Yとの出会いの中で、そういった情報共有をしていきたいという気持ちが自分の中に生まれた。これはある意味、ストリートダンスの気質とは相反する気持ちなのかもしれない。
 
 当時、その根幹になった自分の気持ちは「認めてくれた」という気持ちだったのかもしれない。それは”承認欲求”という幼い子どもが持つ気持ちだったかもしれない。しかし、そういった情報を共有したいという気持ちが後の自分につながってくるのだった。
 

6 I will prepare and some day my chance will come.(準備しておこう。チャンスはいつか訪れるものだ)

  I.D.Cとの交流が始まった中、もう一人のキーマンとの出会いも生まれていた。白鴎大学OB・M、その人である。
 
 出会う前に、実は話の中でその存在は知っていた。
 
 一緒に練習した白鴎大学のSからは「やー、Mはじんべえさんと話したいと思いますよ 笑」。とあるストリートダンサーからは、「Mっていうboogaloo*7が好きな子いてさ、話したことある?」etc...
 
 話は聞いたことがあっても、姿は見えず。
 POPPINが好きな子がいることは分かるが、全く姿は分からない。ちなみにMの方も同様だったようで、話をしてみたいが、どんな人か分からないという状態だったらしい。
 
 ある夜、ララスクエア前の練習をしていた。Sも後ほど練習に来るそうで、一人でSを待っていた。携帯のメールの着信音が鳴る。
 
 ”少し遅れます(^^) Mが来るらしいので、話してみてください”
 ”えっ、どんな人?”
 ”見れば分かります(^^)大泉洋*8に似ています”
 
 無責任である。適当なメールのやり取りの中、大泉洋に似ているMを待つことになった。
 
 事前の話の中で、クラブイベントなどでニアミスしているようだったが、自分の記憶の中では”大泉洋”に似ている人は見かけたことがなかった。
 
 練習をしていると…後ろから満面の笑みの男が現れた。
「どうも」
 ニヤニヤしながら、こちらに近づいてくる。大泉洋?似ている気もするが、件のMは、こやつのことだろう。
 
 挨拶を交わしつつ、少し話をした。本当に少しの時間だったが…しかし、その中でダンスに対する情熱が伝わってきた。情熱というよりも純粋さが伝わってきた。
 「電車の関係でもう少ししたら、ここを去らねばならない」と彼は言ったが、話をしている中で少し踊ってみせてくれた。綺麗なboogalooである。
 
 (なるほど、噂通りなのか、いや、しかし…)
 boogaloo Styleの彼が自分と話をしたいという気持ちがよく分からなかった。*9同じStyle同士であれば、話もしたいだろう。しかし、違うStyleを追求するもの、水と油ほどの考え方の違いだ。
 
 これは彼が純粋にダンスを追求する心を持った人間だったからだ。自分と異なった異なった考え方であっても吸収したい。そして、自分のStyleも追求したい。ダンサーらしい強欲で、熱意のある彼だったこそ、至った行動だったように思える。
 純粋な彼だったからこそ素直に僕に話しかけ、そして、何かを奪いたいと考えただろう。そんな彼だからこそ、自分も何かを差し出せるないかと思った。
 
 後のダンスバトルにおいて、彼とは何度か刃を交えることになるの。また大切な出会いが生まれていたのだった。
 
 こうして、宇都宮大学doocle、国際医療福祉大学I.D.C、白鴎大学EXAの役者は揃った。話は冒頭に戻っていく。
 

音は広がり、雨は大地に染みる 

7 It’s all about the journey, not the outcome.(すべては過程だ。結果ではない)

  POPPIN練習会の準備は勧められ、宇都宮大学の体育館で開催された。ストリートのダンサーの先輩方の協力も得て、様々な人たちが体育館に集った。現在残っている資料によれば各大学から42名に参加し、様々な年代の人が一同に介した企画となった。
 
 POPPINの練習方法を得るよりも、これだけの多種多様な大学生が集まり交流出来たことの方が意味があったのではないかと思っている。
 余談ではあるが、当時、SNSを介して自治医科大学MORLとのつながりも出来、doocleの練習の見学に訪れるなど、じんべえ自身の出会いが広がった時期でもある。
「自分の大学だけではない、広い世界で様々な人がダンスをしている」
 当たり前のことかもしれないが、そういったことを実感することが出来た瞬間でもあった。
 
 この時期に開催されたものは、POPPIN練習会だけではなかった。
 doocle主催Freestyle Dance battle『D-1』である。元々は、ダンスバトルイベントの開催されたことを機に*10サークル内のダンスバトルの練習と意識向上を目指して、始めれた試みであった。”サークル内”と言いつつも、doocle自体が来るものを拒まずの体制だったため、数多くのストリートのダンサーが参加可能となっていた。
 こういった『D-1』の参加の呼びかけを行ったことで参加人数が増え、他大学からも多くの大学生が参加し、互いを高め合った。練習会で情報の共有を行い、そうして、D-1によって、他の学生の実力を確認しあったのである。これらの開催によって、一気に交流が波及していったと考えている。

 

 

(当時のD-1のフライヤー各種:優勝者や活躍した人がモデルとなって絵が描かれる)
 
 
 様々なダンスバトルの機会は、参加者に実力や交流の中で自分の課題、そして、サークルへの”誇り”が高めていった。
 
”昨日は自分が負けたことも悔しいですが…なによりI.D.Cが負けたのが悔しい。
本戦ではdoocle先輩後輩対決、BABAB対決、GANG☆STAR対決、doocle-EXA対決、いろいろあったけど…I.D.Cはない。こういう対決を見ていく度に悔しさが増してく… こんなんでいいのか。
みんなで頑張って鍛えなおして、次はI.D.C対決を実現させてやる。 ”
(当時のYの発言)
 
 他大学という自分と違う世界の住人たちは、多くのことを教えてくれる。価値観の相違、実力さ、そして、何より自分のサークルへの誇りを掘り起こしてくれる大切な要因となる。
 
 話の時期が飛んでしまうが、この年の4月からはTがオーガナイズする「I.D.C NIGHT」が国際医療福祉大学で開催され、たくさんの名勝負が生まれた。このイベントは定期開催され、ポイント制で決勝大会を競い合う今までになかった形のダンスバトル形式となった。各大学の同世代たちが刺激し合い、そして、競いあった。ライバル同士の戦いがさらにDef Fectとしての密度を高めていった。また、EXAにおいてもバトルイベントが開催され、刺激し合える環境が整っていった。
 
 POPPIN主体の話となっているが、LOCKIN練習会も頻繁に行われ、POPPIN練習会も様々な人が参加と記憶している。ジャンルごとの特色が出始め、POPPINは個人指導や飲み会、LOCKINでは練習会やWSへの参加、HIPHOPはチームを組むなどそのジャンルの特性にあった環境が構築されつつあった。
 

8 Imagination means nothing without doing(行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない。)

  前の項では時系列が少しずれてしまったが…
 
 練習会をきっかけに交流すること・刺激し合える環境が必要ではないかとTと僕は考えていた。僕自身はYと出会ったことで、どうやってこの環境を構築するかという視点が出来ていたのだった。
 
「POPPINだけでなく、他のジャンルも含め、大学生同士のやり取りを作れる場所や機会があったほうが面白い」
 
 Tはさっそくmixi内にコミニティを作り、以前に存在しなかった交流出来る場所を確保してくれた。もちろん、これには様々な反応があったが、大学生のダンサー同士が交流する場所はなかったため、賛否が出るのは当たり前のことだった。
 
 交流が盛んになれば、様々な妄想が広がっていく。
「みんなで飲み会をしたい」
「今度はHIPHOPの練習会をしたい」
「合宿してみたい」
 楽しい時間をたくさんの人たちと共有したい。そして、刺激し合って、ダンスを楽しくしていく…そのためには組織化し、しっかりと運営出来る状態にした方がいいように感じた。
 
 時期は3月。T、M、そして、じんべえはララスクエアの前で話し合いをした。自分たちで決めるようなことではないが、先を見据えた何かをしたかった。
  • 三大学の大きなストリートダンスサークルの部長を中心とした組織を構築する
  • 大学生だけではなく、ストリートのダンサー(専門学校生など)*1を含める
  • 自分たちはアドバイザーとして、問題解決などに力を貸す
 上記が決められ、「栃木県ダンス連盟」*2という形で運営が始まることになった。
 
 あえてここで書きたいことが2つほどある。それは自分が見据えていたこと、そして、Mに対しての気持ちである。
 
=自分自身が見据えた未来=
 実際に僕が見据えていたのは「刺激し合える場」だけではなかった。栃木県のダンサーレベルの均一化である。
 
 栄者必衰の理をあらわす…世の中は常に変化し、そして、栄えていたものもいづれ衰えていく。大学生にとって”4年間”という短い期間がダンスに関わる期間である。どんな人も卒業し、次の年には新入生が入学してくる。才能に溢れたものも、どんなにダンスが上手い人でも。
 そんな中で3つの大学が協力し合えば、大きな情報量を共有することが可能になる。単一の大学では少なかった練習方法や過去のデータをリンクし合うことで大きな量にしていきたかった。
 
 これは自分自身が「最低の時間で最高の密度の高い練習・上達方法」を常に求め、たくさんの情報が必要としたからだ。先輩たちに向き合うために得た術を、なんらかの形で残したかった。そして、力を求める者に自分のようになってほしくなかったから。
 
 他大学に教え、そうして、得た情報は自分の大学だけでなく、伝達されていく。そうした行動をすることで卒業・入学というサイクルに一石を投じたかったからに他ならない。
 このためには、自分自身はこの場所に5年いること*3、そして、本気で教えることが必要不可欠だった。5年という歳月を社会人になっても、ここに残る。その時に決断した。まぁ4年しかいることが出来なかったが…
 他の大学であっても、自分自身がしたアドバイスや指導はすべて本気でしている。人として当たり前の行為かもしれないが、情報の秘匿は一切行っていない。
 
 情報が豊かになれば、ダンサーの練習が向上し、そして、レベルの均一化がはかられる。人がいなくなっても、受け継がれる者がいるからだ。これは各所で現在も目に見えるものではないかと考えている。*4
 
=Mへの気持ち=
 この設立当時の話をするとMはいつも「自分は2人に乗っただけですよ」と謙遜する。しかし、僕自身はMがいてくれたこそ、Def Fectが創設し、ここまでやってこれたと思う。
 
 実際、”組織化”という形は、本当に様々な賛否両論が巻き起こった話で、各サークルOBOGに呼ばれ、頭を下げたことも多々ある。それはもちろん先輩方だけでなく、当時のサークルメンバーからも賛否があったのだ。しかし、そういったものを調整し、後輩たちを温かく見守ったMだからこそ、組織として上手くいったと思う。
 EXAの子たちは純粋だ。打算がない子が多かった。興味を持ったことに臆せずに質問してくる。そういった気風を作り上げたのもMの”純粋なダンスを楽しむ心”があったこそだと考えている。
 本当に感謝したい。ありがとう。
 
  創設当時、Tは「Passionnate」(情熱家)、Mは「Balancer」(調整者)であったと自分の中で認識している。自分自身は「Intellectual」(知識を有する者)と言うべか。偶然なのか、必然なのか…新しい物事を始める際に必要な3人が揃い、噛み合った結果がそこにあった。もちろん、ここでは割愛させて頂くが、他にも偉大な先輩方がいたことを覚えておいてほしい。
 
 ”組織化”するための枠組みを整った。そして、僕らには追い風も吹いていた。
 

9 Hoist your sail when the wind is fair.(順風のときに帆をあげよ)

  当時の各サークルの部長に協力のお願いをし、初代のDef Fect連盟長や執行部が決まった。初代の部長たちは懐の大きな者たちだった。自分のサークル以外での活動となり負担も増える。しかし、そういったことを乗り越えていける大きな器の持ち主だった。
 
 また、クラブシーン側からもアプローチがあった。現在の「栃木vs群馬」の打診である。これはとても嬉しい話で形だけ組織となっていたDef Fectに命や心を吹き込むための大切な節目となった。
 
 クラブシーンで現在も北関東で活躍するKさんからの打診である。クラブ・イベント側とつながり、そして、学生たちも協力者たちが連盟を盛り上げる。そうした形が設立当時に出来上がった。
 急務となったのは、連盟の名前。様々なものが挙げられたが、「Def Fect」という名前が採用され、初めて開催されることになった「栃木vs群馬」のために旗などが作られた。
 
 Def Fectとつながることとなった群馬大学ダンス連盟「Make a Chin」は、その当時で10年の歴史を誇るダンス連盟であった。参考にすべき点、また、連携方法や交流の仕方など様々な点で勉強させて頂いた。イベント開催後は、何度か群馬へ足を運ぶことになった。
 
 ちなみに第1回の「栃木vs群馬」には、Free Style 5on5という形で出場させて頂いた。メンバー4人がPOPPINという異色な構成。
 初回の開催、組織として未熟な部分があったため、様々な事情があり、このような構成となった。T、じんべえを含め、I.D.CのY、T、doocleの4年生だったMなど本当に楽しませてもらったことを覚えている。急遽、本番前に集まりルーティーンを確認する。そして、悪ふざけ半分・本気半分で挑んだダンスバトルはなんとか勝利することが出来た。
 
 この時のイベントにおいて、初めて「栃木」「Def Fect」という集団が一体となった。応援、熱狂、団体戦…他のイベントでは感じることが出来なかった一体感。そして、次へ向けての目標などバラバラだった心が同じ方向を向き、全員が組織して動ける志を持つことが出来るようになった。

(当時のFreestyle Crew Battleで取った写真)
 
 その後、栃木のダンスシーンにおいて、”学生”としてのダンスシーンが意識されるようになった。年齢別のダンスバトル、ショーケースイベント等…東京に比べ人数が少ない地方において、学生が盛り上がることで地域全体のダンスシーンへ影響を与えるようになっていた。
 
 そんな順風な新生「Def Fect」を横目に、自分には数々の問題があった。
 最初に書いたDefectな自分では、何も出来なかったと思う。それを払拭し、きっかけを与えてくれたのは、doocleの後輩たちだった。
 

人と話す時は瞳と瞳を合わせる

10 The best way to find out if you can trust somebody is to trust them.(誰かを信頼できるかを試すのに一番良い方法は、彼らを信頼してみることだ)

  ”なぜ、自分の力がないのか?なぜ、力があることが優先させるのか?信頼は力なのか?”
(じんべえの日記から抜粋)
 本当に自分は”欠陥品”だった。
 「認めてくれた」という何の根拠もない自分勝手な理由が自分を「認めてくれない」という者を捨てさせた。I.D.Cとの交流や他大学との時間、そして、自分の練習時間…あの時、一切宇都宮大学への練習へ行かなくなった。
 
 他人から認めてもらったという自負は、自分の本来いるべき場所すら捨てさせたのだった。上辺では取り繕っていたが、周りから見たら、明らかだったと思う。doocleの先輩、後輩、同輩…そして、居場所を捨てていた。
 元々先輩には嫉妬心がある。それに懐く後輩たちも自分にとっては、疎ましい存在となっていた。
「じんべえさんってI.D.Cの先輩でしたっけ?」
 doocleの後輩から言われた言葉である。今考えてみると、恐ろしい皮肉である。そんなことを言われても、「はっはっは。違うでしょ、何いってんの?笑」くらいの受け取り方しかしていなかった。
 自分には後輩たちがいた。最も信頼してほしかった後輩たちが…自分が3年生*5の時に入学してきた1年生たちである。自分が入学してきた時に頼れる3年生の先輩方に憧れたように…
 1年生が入ってきた時に、何かが出来ることは?と考えて、しっかりとPOPPINを教えた。1年生よりも早く体育館にきて、教えることを予習してから教える。その行為は自分にとってプラスとなるが、その根っこにあったものは、信頼がほしいという気持ちだったように思える。
 「そこまでしたなら…」そう言う身勝手な考えが浮かび、勝手に期待し、勝手に失望する。先輩たちの方が懐いているような気がして、ひどく嫉妬した。
 その1年生は”BABAB”という3人だった。3人は純粋にダンスを楽しみ、葛藤しながらも成長していった。
 BABABが2年生の時に落ち込んでいた時があった。 精神がおかしくなっていた自分でも、何か力になりたいと…それは邪な心だった。
 ある時、ストリートの先輩にその心の内を話をした。
「自分は彼らの力になりたい」 そして、先輩は激怒し、こういった。
「お前の身勝手で、捨てて、そうして、捨てた関係をなしにするのか!?呆れるほど汚いやり方だな!」
 表面上は取り繕って話をしたつもりだったが、すべて見抜かれていた。自分では気がつかないようにしていた身勝手な考えを、すべて射抜かれ、釘を打ち込まれたような衝撃だった。
 POPPIN練習会の準備が進む3月。僕は彼らと話すことにした。自分勝手な話だ。それでも、3人に断罪してもらいたいと思った。
 BABABとご飯を食べに”まるまつ”へ。
 和やかな話から来年度の運営の話になる。BABABも執行部になる日が近い。
 そんな中、3人の気持ちを聞いてみた。
「協力したいと思っている。3人は俺に対してどう思っている?」
 3人は静かになり、一瞬黙った。そして
「あなたは身勝手な人だ」と一人は僕に言った。
「あなたは逃げた。そんな人を信用出来るのか」と一人は僕を罵倒した。
「あなたはそんな人ではなかったはずだ」と一人は僕を窘めた。
 
 詳しくは上手く書くことが出来ないのだが、信じたくても信じれないという話だった。本気で申し訳ないと思った。そして、自分の身勝手な心を後輩たちは分かっていて、本音を話してくれていることが分かった。
 
 勝手に先輩面をして、勝手に思い描いて、勝手に失望していた。3人は自分の良い面も見てくれていた。そして、悪い所もすべて見ていてくれた。
 「認める」「認めない」そんな話じゃなかった…視界にすら入っていないと思っていたが、視界には入っていた。自分は勝手に殻に閉じこもっていただけだった。
 
「これから頑張る、信じてもらえるように頑張る」
 
 それしか言うことが出来なかった。ただ、本音で話すことが出来て少しだけ嬉しかった。大学に戻る時に「これからっすよ、これから」と3人は笑った。
 
 自分が呆れていなかったことが唯一の救いだった。これから信用を積む。そして、実感したのは、自分自身は矮小な人間で、そうして、先輩の器ではないということ。上からの目線ではなく、人間として同じ目線で在りたいということ。
 
 Def Fectにとって関係ないような話に感じるかもしれない。ただ、この体験があったからこそ、後輩たちと同じ目線で感じることを意識し、そうしてDef Fectで様々なアドバイスをすることが出来たと考えている。
 
 doocleだけじゃない、様々な大学の後輩が出来るのだ。
”同じ人間として信頼され、ちょっと時間を多くダンスに関わった人間としてアドバイスをしたい”
”みんな、良い面も悪い面も見てくれている。だからこそ、自分も偏った目ではなく、みんなのそういった面も見よう”
 自分の中のDef Fectで関わった後輩たちへの接する姿勢である。
 
 また、この時の経験からサークル運営に関して”自分のサークルに対しての接し方・関わり方”を学んだと考えている。
 創設当時から今ままで存在していることかもしれないが…交流が深まっていくにつれて、自分のサークルに対しての不満や不安が見えるようになる。世界が広がるということはそういうことでもあるから。
 しかしながら、自分を産んでくれた場所にはそれ相応の何か出来ることがあると僕は思う。それが何かをここに書くことが出来ないが、変化させることも誇りや愛がなければ出来ない。無関心でいること、接することを破棄することはしてはならない。
「暗いと不満を言うよりも、進んで明かりを点けましょう」
 それは覚悟や決意の必要が行為かもしれないが、きっと何かの大切な経験になると信じている。
 
 BABABの3人とは、その後、様々な経験を共有することが出来た。
 自分自身の眼が曇り、そして、見えなかったものも見えるようになった。笑い合える関係になったと信じている。あの一件で、自分の欠陥は少し改善したのかもしれない。
 
 Def Fectに関わり、創設に手を貸した自分だが、それは「素晴らしいことをしよう!」という気持ちだけではなかったように思える。自分自身のある意味汚い部分から生まれた打算、そして、劣等感などにそこにはあったように思える。
 結果としてそれは、大きなうねりとなり、たくさんの笑顔を産んだかもしれないが、その根底にあるものを思い返すと、自分自身はただの小さな人間でしかなかったのではないかと感じるのだ。
 BABABはその後、「栃木vs群馬」やコンテストなどで様々な影響をDef Fectに与えた。doocle poppersとしての活動も続け、たくさん後輩たちの目標やライバルになったと感じている。
 
 余談となってしまうが…自分自身も「よく見ると二十歳」というチームを編成することがあった。各大学のPOPPINの20歳を集め、一緒にショーをした。元々、3大学でやっていたチームは少なく、そんな中でパワー・野心溢れる同世代を集めることの機会は中々存在しなかった。
 
 そこでつながった世代がさらに大きく躍動していくのだが、自分の中でBABABとの一件がなければ、すべての大学の後輩たちにこのように接することが出来たか分からない。自分の中ではターニングポイントとなった事件であったと考えている。
 

 12 When we go into that new project, we believe in it all the way.(新しいプロジェクトをひとたびやると決めたら、とことん信じ込むんだ)  


(当時のDef Fect合同練習会の写真)
 創設時に開催を予定されていた練習会も恙無く行われ、様々な練習方法や情報のやり取りが始まった。当たり前のだが、新設された組織のため、ゆっくりとした進行速度で融け合うように色々な要素が混じりあっていった。
 上手く行かなったこともたくさんある。しかし、そういった中でDef Fectとして、また、大学ごとの変革も数多くあった。
 
 創設から2年目。栃木県最強のダンサーを決める闘いD-splayが開催され、ダンスバトル熱が加速した。各大学に実力あるダンサーが増え、火花を散らし、互いを高め合いました。自分はBattle DJとして参加させてもらった。
 創設から3年目。EXAでは練習時間のフリーサークルが取り入れられ、様々な意見が飛び交った。当時の部長SがDef Fectやダンスバトルイベントの様子を見て、導入を決めたようだ。現在も残っている伝統だと思われる。
 創設から4年目。連盟長が茨城に出向き、現在の「Re:ism」の枠組みを作った。
 
 その後、自分は諸事情により故郷に戻ることになってしまったが…動画や後輩たちからの連絡から状況を伺っている。
 
 Def Fectとして組織が成熟していくにつれて、各サークルも影響しながら化学反応が続いていった。創設当時から”意識改革”など様々な課題があったが、そういった化学反応の中で解決すやすくなったことも多いではないだろうか。
 
 "変革”に対して、適応し、そして、新たな可能性を模索する方々も数多くいた。そういった影の主役たちも大勢存在している。
 

 13 Without friends no one would choose to live, though he had all other goods.(友人がいなければ、誰も生きることを選ばないだろう。たとえ、他のあらゆるものが手に入っても)

 あまりに量が多くなるので、書くことが出来ないが、創設した当時から今まで尽力を尽くした方々は大勢いらっしゃる。
 現在、DJとして活躍するEXA・OBのKやI.D.C・OBのTなんかも立役者だと思うし、協力してくださったストリートの方々も大勢存在している。自分と一人一人関わってくれた人たちすべてのエピソードを交えれば、歴史書一冊を作れるくらいだ。
 
 今更だが、
「果たしてDef Fectを創設したこと、そういった流れを作ったことは、本当によかったのか?」と疑問に思う時があった。
 良かったことばかりではないから。やはり、自分の作ったうねりのせいで楽しくダンスを出来なかった人もいると感じるから。
 
 この投稿記事の構想のきっかけとして…3月に宇都宮に行った際にあるI.D.CのOBの人と再会したことが挙げられる。創設当時、頭を下げにいった人だ。
 
 再会し、その時の話になった時に…
「こんな楽しい場が今あるなら、Def Fectが出来てよかったんじゃないの?」
とおっしゃった。その時に自分の中にあった疑問が氷解したような気がした。
 
 様々な心が受け継がれ、7年目。
 継った心は…”人間らしいもの”であると感じている。人間らしい心…それは、美しく清いものだけはないと自分は考えている。
 
 誰しも感じる嫉妬、誰しも思う嫌悪感、他者が存在してこその劣等感、そして、みんなでダンスをする一体感、仲間との友情、絆、誇り。そういったすべてのモノが人間らしさだと思う。
 困難に見舞われることもあるだろう。嬉しさで涙を流すこともあるだろう。
 悔しさで枕を濡らす時もあるだろう。仲間との思い出に笑顔になる時もあるだろう。
 そういったすべての気持ちを受け継いで、”ダンス”という共通の素晴らしい物事をしている。
 
 創設に関わった者として今、伝えたいことは…
 自分をすべて信じること。そして、仲間をすべて信じること。
 
 キレイ事に思える言葉だ。自分の醜い部分も、自分の清い部分も、他者の醜い部分も他者の素晴らしい部分もすべて信じ、認識し、そういった中で次の世代へバトンを綱がなければならない。
 今を生きる君たちが最も素晴らしく、そして、次の行動を決めることが出来る選択者である。
 
 今まで書いたように、自分は愚者だ。そんな愚者の感情に乗った心根のいい人達が創りあげたのはDef Fectかもしれない。しかし、もう僕達は過去の遺物だ。
 
 行動を選択し、そして、思い描く。次のモノを創造するのは現役たちの役目。だからこそ、自由に、大胆で、そして、自分を信じ、楽しくダンスをしてほしいと願う。
 
 Def Fectに関わり、自分自身は大きな出会い、そして、たくさんの経験をし、多くの後輩たちと踊ることが出来た。本当に感謝している。
 ”Defect”だった自分がこんなにも素晴らしい体験、出会いを得たなんて普通ありえないことなんだと思っている。
 OB・OGたちは苦労したこともあっただろう。しかし、そういったことを少しでも同じように経験することが出来た自分は本当に幸運な人間なんだと思った。また、会って酒でも飲み交わしたい。
 
 たくさんの経験をさせてくれたDef Fect。ここに書き尽くせないくらいたくさんの事件や経験をした。そして、その中で自分の価値観やダンスが変わっていった。
 そうした機会を作ってくれたすべての方々に感謝をしたい。ありがとう。
 
 これからの更なるDef Fectの発展を願って、この投稿記事の締めとさせて頂く。
 長文乱筆失礼致しました。読んでくれて、本当にありがとうございました。
 

  掲載当時のYouTubeの動画等は消されているものもあるため、今回は載せません。
 地域ごとのストリートダンス文化の履歴は明文化されることが少ないため、コミュニティの一つの資料になればと考え、再掲載しています。