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【過去Blog/体験談】The Origin of Def Fect -Side Story-

 こちらの記事は、下の記事で紹介しました栃木県学生ダンス連盟発足当時の本流から少し離れたサイドストーリーとなっております。集団というよりも個人に焦点を当てた話となっております。
(掲載当時の表現や文章は変えずに再度掲載しております)
 

 

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I.D.C NIGHT

 2010年…Def Fectが創設され、様々な試みが各サークルで行われていた。
 前回の話にも出てきたように練習会を始め、バトルイベントもその一つである。
 そんな中、Tが主催し、継続して行われた「I.D.C NIGHT」は自分自身にとっても思い出深いイベントだ。
 
 国際医療福祉大学で開催される定期的なバトル。夏休み期間を利用し、1周間に1回のペースでバトルを行っていく。優勝者には、ポイントが与えられ、最後のファイナルにて、真の強者を決める熱い戦いだ。
 I.D.Cに新しい風を吹かせることを目的に、ストリート出身のダンサーや各大学のホープたちが集い、戦い合った。年齢制限は定められていなかったが*1、若い世代の大学生ダンサーにとって、自らを進化させていくための重要な機会となった。
 
 自分自身も1週間毎に福祉大へ出向き、見学・ジャッジ・鉄人も務めることが出来た。当時のTやスタッフの苦労は本当に計り知れない。しかし、それ相応の”成長”を見ることが出来たイベントでもあった。
 
 そんな「I.D.C NIGHT」のお話である。

1 臥薪嘗胆

 2010年9月17日。I.D.Cの合宿最中に開催された「I.D.C NIGHT」には、いつもと違う空気が流れていた。いつも開催しているバス停から”みつばち村”へ場所が変わったからか?いや、そうではない。
 バトルは恙無く進み、残すは決勝戦だけである。 
 I.D.C勢は、全員座り、決勝のバトル開始の合図を待っていた。テンションは高いように見える。しかし、その中にYが虫を噛み潰した顔でそこに座っているのが見えた。ジャッジ席に座っていた僕は、思うことはあったが、決勝戦の審判のため、深呼吸をして、心を落ち着かせた…
 
 クラブで開催されるダンスバトルはまだ少なく、開催されれば、常時ダンサーが60名以上参加することも多かった時代である。若手ダンサーたちは、自分たちでバトル練習を行い、そして、自らの経験値を貯めるために小さいながらもバトルイベントを主催した。
 そのような対面式で行われるバトルで、予選に上がることが難しい若手たちは貴重な機会を逃さぬように経験を得ていった。
 「I.D.C NIGHT」も同様に経験値と新しい風を入れることを目的にした企画だった。しかし、それは経験の場と共に、闘争の場所だったのである。”闘い”だからこそ、”勝敗”が着くからこそ、誰にも負けたくない。そして、それは自分自身の尊厳だけなく、サークルとしての誇りを纏っていた。
 
 Yが見つめるその決勝戦のカード。doocleで同年代のゆうすけ(仮名)、そして、もう一方は、ストリート出身でダンスを初めて1年にも満たないこうへい(仮名)だった。Yを含め3人はPOPPINを生業とするダンサーであり、自分たちのイベントで決勝戦に立てないことへの歯痒さ、そして、同世代が火花を散らす姿を見ることは、想像を絶する悔しさだっただろう。Yの目が鋭さを増し、燃え上がる闘志が揺らめいていた。
 
 決勝戦が終わり、ジャッジへアドバイスを聞く時間。*2
 その日は、合宿の合間ということでゆっくりした時間はなかったが…Yが自分の所へやってきた。その顔は険しく、JUDGEに対する不満を持っていたように思える。
 
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 Def Fectが組織として成立し、最初の新入生を迎えた。
 組織として未熟な部分は多かったが、以前よりも各大学の交流が増え、ライバル意識や仲間意識など様々な感情が芽生え始めた年代だった。初代の執行部が企画を運営していく中で、新入生同士の交流だけでなく、”次世代の育成”も行われていた。
 ”次世代の育成”と言うが、どちらかと言えば…ライバル意識の芽生えを与えることが先輩たちの仕事だったように感じる。仲間、ライバル、共に踊り合える最高の仲間を。そういったものが次世代の財産になるように考えていたからだ。
 しかしながら、それは次世代の原石たちを闘いの場へ放り込むことになる。僕らはそれを見ながら、誇らしく楽しみに感じながら、闘う姿を見ていたのだった。
 
 次世代の筆頭候補として、逸早く名乗りを上げたのは「Y」だった。
 1年生当時から多数のジャンルを経験し、イベントなどに積極的に参加する。音楽に対する”嗅覚”を持つ彼の吸収力はピカイチで様々なジャンルを踊ることが出来た。先輩からも同世代からも注目されるI.D.Cの新星だった。
 しかし、I.D.C NIGHTが開催される時期になると彼の思わぬ弱点が発覚していく。それは「基礎力のなさ」である。
 器用に踊ることが出来るが故に密度の濃い質の高いダンスをすることが出来なかったのである。多数ジャンルを踊る環境のため、基礎練習の時間がとらず、ダンスの土台が脆いものとなっていた。
 
 ダンス、スポーツ、物事すべてに「基本」「基礎」が存在している。それは先人たちによって積み重ねられた理論であり、「応用」をしていくための土台となる。しっかりとした土台があるからこそ、そこに大きな自分を乗せることが可能になる。
 彼の弱点は、その部分であった。まして、音楽に対する嗅覚が即座に身体を反応させてしまう。音が先行し、身体がついていかない。次のステップへ進むための壁は、「基礎力」をつけることが必要だった。
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 「なぜ、俺は負けたのですか?」
 Yはこの時にI.D.Cの同輩に負けていた。
 僕はYにアドバイスをすると、合宿所を立ち去った。思い返してみると、彼の悔しい思いをしていた顔の方が覚えている。そのバトルの勝敗というよりも、どちらかと言えば、決勝という場に立てなかった自分に対して憤る雰囲気があった。
 
 I.D.C NIGHTのファイナルまで、残り僅かの日数となっていた。

2 日進月歩

 次世代たちのぶつかり合いの中で、ゆっくりと進む者がいた。doocleのゆうすけである。doocleのPOPPINという、その当時最も厳しい環境の中で育つ原石であった。
   入学してきた当時、「俺、ダンスしたいんすよ!」と意気揚々とdoocleに入部してきた。しかし、先輩たちからは「調子に乗っているんじゃないかな」と少し生意気に見られていたことを覚えている。
 しかし、彼の意欲は本物だった。入学当初から練習に参加し、じっくりと、ゆっくりと歩を進めた。先輩たちも個性溢れる、そして、何よりも厳しい環境の中、その心の内に闘志を秘めて。
   実際の話、僕自身は彼の心が掴めなかった。意欲もある、気も使える…そうであるが、暗闇の中の獣のような何か隠しているような部分があった。先輩だから、話せなかったことも多いと思う。ただ、彼にはそれ以上にもこれ以下にも自分たちに本心を晒してくれなかったのだと感じていた。*3
 
 厳しい練習の中で彼は自分に出来ることを確実に増やしていった。基礎練習の反復*4をすることで自分のダンス力を高めていった。
 
 彼の課題は「己のダンススタイル」を見つけることだった。
 同年代が次々に方向性を見つけていく中で、自分の”好きなもの”や”得意なもの”を発見していくことが当時の課題だった。悪しき風習かもしれないが、同年代は比較される。そんな中でYの一歩後ろに位置しているのでは?というのが彼の評価だった。
  しかし、”ダンスの土台”となる基礎力を高めていったことがI.D.C NIGHTのイベントでは炸裂する。若いダンスをしながらも、安定した力があった。元々、練習量や経験値においてはYに劣っていない。そういった結果を見せる要素は十分に揃っていたのである。
 彼もまたその闘いを経て、最後のファイナルに進む権利を掴んだのだった。
 

3 夜は短し歩けよ乙女

 男たちが火花を散らす中、このレースに参加する一人の女の子がいた。doocleのHIPHOPERのさおり(仮名)である。
 確かにYとゆうすけの同世代競争は注目されていた。それは他の原石たちが注目されなかった訳ではない。ただ、火花の散らす闘争の中に、火中の栗を拾いに行くものが現れるとは誰もが考えなかったのだ。
 
 ここで話が少しずれてしまうが、ダンスバトルの結果やコンテストの結果が「ダンス」のすべてではないことを言及しておく。評価されることだけがダンスではない。ただ、Def Fectが創設され、交流が深まる中で、そういった繋がりを意識したライバル関係や仲間としての大学生のダンスシーンの新たな要素として加わったのだと思う。
 未来を創る次世代たちが、どんな気持ちで、どんなことをしてくれるのか…非常に期待されていたからこそ、このような面白さが生まれたのだと思う。人と人が出会ったことによる化学反応。それは現在のDef Fectにおいても存在するダンス・人生の魅力だと筆者は考えている。*5
 
 さおりは入学当時は、おっとりしたタイプの女の子だった。
 初めて出会った時は、どこかオドオドしていて意思表示の弱い子だと感じたことを覚えている。実際に話をしてみると、そうでもない部分もたくさんあったが、その当時の彼女は自分のダンスに対して迷いがあったように思う。
 ”迷い”を払拭するために、先輩と一緒に練習したり、各イベントにも顔を出していた。今だからこそ言えるが、当時の先輩たちでそんな彼女をどうにか成長させてあげたいと何度か話し合いの場が設けられたことを覚えている。技術的なことではなく、精神的なことを進める何かを…そこまで大きな事件があった訳ではないが、今更ながら思い返すと彼女のことを考えていた先輩は多かったと思う。
 
 ”闘争の中に彼女を放り込むか?”
 何度か出た議題の一つだ。ライバル関係というのは、同性の方が感じやすい。Yやゆうすけに対抗心を燃やしてくれるだろうか?気になっていたポイントはそこだった。しかし、その部分は僕らではなく、彼女自身の心が決めることだった。
   さおりは、それまでのI.D.C NIGHTでは優勝という結果の残せなったものの、地道にポイントを稼ぎ、ファイナリストとなっていた。
 

4 目覚めの朝に鳥は鳴く

 2010年6月のD-1の開催直前。僕は後輩と一緒に出場者一覧のコピーを取りに家に向かっていた。その日のD-1の出場者は多く、また、たくさんのダンサーが集まったが、その中でも「誰が最短のD-1予選記録を作るのか」も注目される要素だった。*6
 Yやゆうすけ、さおりも参加していたが…最短でなくても2年生の6月なら、かなり早い記録になるだろうと意気込んでいた。
 
「そういやさ、ゆうすけってYと話ししたことあるの?仲がいいイメージないわ」
「話をしたことはあるみたいですよ。っていうより、かなり意識してるみたいです」
「えっ?意識してるの?そういうのないかと…」
「すごい意識してますよ、話してると絶対に負けたくないって言いますもん」
 自分は知ることが出来なかったが、ライバル意識は持ってるようだ。思わずニヤけてしまう。彼とYの間にそんな関係が生まれているとは…
「さおりは何か言っていた?」
「うーん、でも、頑張りたいって言ってましたよ」
 その時のD-1では、3人とも予選を通過することは出来なかった。ただ、きっとどこかで相まみえるのだろうという予感がしていた…
 
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   I.D.C NIGHTファイナルの直前、doocleでは1・2年生D-1が開催されていた。当時、夏休みの練習成果を確認する意味合いで1・2年生によるD-1が開催されていた。*7下馬評では、ゆうすけが有力であり、さおりがどこまで行けるのかのが注目されていた。
   終わってみれば、優勝はゆうすけで、準優勝はさおりだった。ゆうすけは笑顔で喜び、そして、次の闘いへ向けて先輩たちのアドバイスを聞いていた。
(まぁこんなもんか…)
 と思いつつ、外に出てみるとさおりがうずくまって泣いていた。
 確かに結果は出た。しかし、彼女の涙は何に対してのものなのか?自分は測りかねていた部分があった。正直な話、彼女は一生懸命にやったのだから、それでいいのではないのかと。
 しかし、それ以上に考えることも彼女の中にあったのだろう。いつの間にか、彼女も闘争の中に身を置く一人となっていたことをその時に理解した。
 
 彼女は涙を拭くと、次の”機会”へ向けて、先輩方のもとへ歩いていった。
 自分も出来るアドバイスはすべてした。9月終わりの体育館は熱く、そして、静かに暗くなった。

5 震えるその手に

 2010年10月1日。I.D.C NIGHTファイナル。
 10月を迎えた大田原市は涼しさが増し、夏が終わったことを知らせていた。
 福祉大のバス停の中にはたくさんの人が集まり、そして、いつものI.D.C NIGHTとは違う空気となっていた。心地よい熱気とピリピリとしたやる気が伝わってくる。ファイナルとして、最高の雰囲気だ。
 ファイナリストたちは集結し、それぞれが目標やライバルなどを見据え、和やかな空気ながらも、どこか既に闘いが始まっているような空気があった。
 
 僕自身はジャッジとして参加し、このイベントに関われたことを非常に嬉しく思った。ストリートの先輩方もジャッジとして到着し、闘いの火蓋は切って落とされたのだった。
 
 バトルが始まると、熱気と殺気にバス停の中は包まれた。
 筆舌に尽くし難いダンスバトルばかりである。勝敗について迷うことばかりだった。
 そんなバトルの中、目の色が違う男がいた。Yである。今までで最高のダンスであったと思う。ジャッジ席まで伝わってくる意気込み。思い。個人としての気持ちだけではなく、そこにはI.D.Cとして背負うものがあった。当時2年生、部長でも執行部でもない。そんな人間がサークルに対して、ダンスに対してこれほどまでの気迫を持つのかと驚いた。Yは順当に勝ち進んでいった。
 
 ゆうすけはそんなバトルの中、少し調子を崩しているように見えた。直前に開催されたD-1の優勝という結果が彼の枷になったのかもしれない。
 それは決して慢心ではない、それは成長過程におきる心の不安定さだった。なぜ、そこで…それは彼の次の機会へステップだろう。しかし、今はそれすら負ける要素になる。
 D-1で優勝したダンスをしても、I.D.C NIGHTでは優勝することが出来ないのだ。ダンスにおける精神の安定は、どのダンサーにおいても重要なこと。若い彼であれば、重圧やライバルの対抗心の中で、その調整していくことは難しいことだろう。踊っている最中、彼の顔が少し辛そうに見えた。
 勝敗が決した時、悔しさに顔を歪めながら、彼はゆっくりと後ろに下がった。

 さおりは尻上がりに調子を上げていた。バトルをする度に上手になる。闘いの場ですら楽しんでいるような雰囲気をまとっていた。イベントの最中に成長している。
 彼女が準決勝を終えた時、会場からはため息が漏れた。
 
 I.D.C NGHT決勝。I.D.C vs doocle。POPPIN vs HIPHOP。
 決勝前、Yは頬を叩き、後ろにはI.D.C勢が応援に立った。さおりは、靴紐を結び直し、Yをゆっくりと見定めた。一ヶ月に及ぶ死闘の勝者が決まる。それだけでこの会場で注目され、吐く息ですら見えるような空間が広がっていた。

 音楽が流れ、バトルが開始された。ゆっくりと互いに、目線を合わせる。語られる言葉がないが、目がすべてを伝えてくれる。
 ゆっくりとしたやり取りの中で、先手を取ったのはYだった。気迫が伝わってくる。後ろにいる者たちを背負い、そして、気持ちを込めていく。出来る限りの自分だっただろう。返すさおりも、それに応え、音楽を身体に入れていく。一進一退の攻防だ。
 
 しかし、その瞬間はやってきてしまう。2ムーブ目、Yの動きが変化してしまった。
 それは疲れ、身体の不調から来るものではない。気持ちの影響。
(絶対に負けない)
 その闘志が身体と心を引き剥がした。わずかではあるが…気負った。音楽に対して身体が先行している。崩れたものを再構成すること、それは難しい行為だった。
 さおりの2ムーブ目。流れが途切れないそのムーブ。気持ちだけではない、身体も修練を積んだ証拠だ。そして、彼女は自分のため、そして、”音楽”と共にそこにいた。
 
 バトルが終わり、外でのジャッジでの話し合い。総意は既に出ていた。
 中に入り、二人を見る。ジャッジをしなければならなかったのが、心苦しかった。
 中にいるすべての人を顔を見た。それぞれが神妙な面持ちだったことを覚えている。
 
 二人の手を握り、ドラムロールを待つ。
 二人の手は汗で濡れていた。Yの手を握ると、少し震えていたように感じた。ジャッジとして手をにぎる瞬間は、この時が初めてだったから…戦った二人に悟られないように平静に努めた。
 合図と共に、手を強く握り、右手を上へ掲げる。
 左手も一緒に挙げてしまいたかった。しかし、勝敗は決し、その中に輝きもあった。だからこそ、その輝きを汚してはならないのだと思う。
 
 会場は歓声に包まれ、勝者は声をあげる。敗者は事実はうずくまり、顔を伏せた。
 一ヶ月に及ぶ闘いは終わり、ここから新たな道が始まったのだった。
 

6 誰がために鐘は鳴る

 今、あの時を思い返してみると…濃密な時間を過ごしたものだと懐かしく思う。
 その時の勝敗は今でも妥当であったと思うし、自分自身の采配についても納得している。勝敗を分けたものはなんだったのか?それは技術ではなく、心ではないかと。

 あの時、男たちは”誇り”を守る闘いをしていた。それは勝負によっては大切な因子の一つだ。しかし、彼女は自分のために踊っていたのではないかと。
 これは、「サークル愛がないほうが勝負の時に有利だ」とか「ライバルがいない方がいい」という話ではない。2年生として様々な誇りをかけたYとゆうすけ。あの時期にしては、そういった背負うものは少し早かったかもしれないと思う。もし、あの闘いが半年後や一年後に開催されていた企画なら、結果は全く違うものになったかもしれないということだ。
 彼女は決勝戦、自分を信じた。自分の出来る限りのことをした。シンプルなことだが、人間にとって、それは最も難しいことかもしれない。自分を信じること、自分が歩んだ道に後悔をしないこと。迷いを持つ人間なら誰しもそういったことに対して躊躇を持つから。それが出来た瞬間だったから、あの時に勝利を得たのだ。

 その後、3人は良きライバル関係となった。
 執行部となり中心メンバーになっても、それは変わらずたくさんのことを後輩たちに伝えてくれた。ダンスも日々成長し、様々なイベントで活躍を果たした。栃木県において、旋風を巻き起こした世代となったと思う。
 
 彼らがバトルイベントで活躍する度に、僕はまたあの時の闘いの続きが見られるのではないかと楽しみにしていた。いつから始まったのか…その出来いと絆は、続いていくのだろう。
 
 I.D.C NGHTは翌年も開催され、更なる盛り上がりを見せた。その話は別の機会に。
 あのバス停は、自分の大学ではないが、非常に思い出深い場所だ。練習したことも、そこであった闘いも自分の大切な思い出だ。
 
 本当にただの昔話ではあるが、そこに先輩たちの青春があった。現在のDef Fectでもそんなライバル関係があるだろう。きっとこれからもそんな闘いは続き、そして、その中で様々な成長がなされていく…
 あの動乱の時代にあったものが今でも輝きとして残っていることを自分は誇りに感じる。  
*1:暗黙の了解であった
*2:I.D.C NIGHTのいい所、通常のバトルでは話を聞く時間は少ないが、このイベントではじっくりゆっくり朝までダンスについて語り合った。
*3:実際に話をしっかり出来たのは、時間が大分過ぎてからで…出会って1年以上経過したのに、彼が酒を飲めないことを知らなかった。
*4:今でも笑い話になるが、7時間アイソレ・ヒットをさせて、「じんべえさん、天井からなんか降ってきて死んでくれないかな?」と思ったらしい
*5:筆者自体は同年代が大学内にいなかったため、このあたりがとても気になる人。同じ年齢で、同じような経験の仲間と切磋琢磨してみたかった気持ちが強い。
*6:その当時の最短記録は1年生の2月の予選突破を果たしたdoocleのM(ダンスを始めて11ヶ月)。
*7:後輩たちにとっては、自分の成長度合いの結果を知ることが出来る機会だった。
 
 

下克上

"下克上 意味:下の者が上の者に打ち勝って権力を手中にすること ”
 年功序列が大切にされる日本において、この言葉を聞く機会は少ないかもしれない。しかし、”闘争”の場において、それは常々繰り返され、下位の者が上位へ噛みつく瞬間こそ、人間の本質であると自分は考えている。
 ”番狂わせ”が起きるからこそ、人は”挑戦”し続けることを大切にし、そして、自らの研鑽をかかすことが出来ない。
 しかし、それが起こした時、人は何を感じるのだろうか?
 

1 人生は出会いが全て。出会った人を喜ばせることから、道は開ける

 今までの記事内容で察した方は多いと思うが、自分自身と宇都宮大学doocle、国際医療福祉大学I.D.Cの結びつきは強い。交流の密度というよりもどちらかと言えば、指導した回数が多いからである。
 では、白鴎大学EXAとはどうなのか?
 正直な話をするとMを含め、白鴎大学EXAに対してはMから続く戦友のような感覚が強く、後輩たちに対しても、そういった雰囲気を感じていたのが本音である。話をしたり、一緒に酒を飲む機会もあったが、なにか少し違った雰囲気を感じていた。
   EXAの後輩たちはとても純粋だ。
 それは現在も受け継がれている部分だと思う。許容範囲が広い、心が広いというべか…自分の良いと思ったことに対して貪欲で、そこに打算をいれずに物怖じせずに話をしてくる。だからこそ、様々な改革や技術を取り入れることが出来たのだと思う。
 
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 2011年。先の記事に書いたYがDef Fectの連盟長に就任し、初代の執行部から受け継いだものをさらに一歩進める年代となっていた。この年のサークル入部者数は多く、各サークルがより一層躍進するような気配があった。
 そんな中、様々な大学や企画に参加していた自分に「EXAに有望な奴が入った!」という話を耳に挟んだ。話の出元はMである。
 「柔道出身の奴なんですが、面白い奴なんで、話をして見て下さい!」
 余談ではあるが、ダンサーの体格が大型化している近年である。入学当時は自分も体格が良いほうだと思っていたが、入ってくる新入生たちは、自分よりも身体が大きいことが多くなっていた。
 (柔道経験者?それも結構強い…それならば)
 話を聞いた感じでは、自分の中で巨漢の強面な大男がイメージされていた。
 
 EXAでイベントがあり、遊びに行ってみると…すぐにMがかけてくれた。
「こいつですよ。前に話をしていたの(^ω^)」
 そこには自分がイメージしたような大男ではなく、真面目そうな青年がちょこんと立っていた。
「"たま”って言います。よろしくお願いします!」
 思っていたより元気に礼儀正しく挨拶を返されたので、驚いた。*1
 
 柔道をしているせいか、とても礼節のある人物だった。
 初対面から目を見て話せる人間は少ない。それが出来る人間なののだと思った。
 それがEXAの”たま”との出会いだった。

2 純粋な心を持っているか?それは、目の輝きと朝食のメニューで分かる。

 ”たま”はEXAのPOPPINについて学びつつも、広く様々なものを取り入れることの出来る人物であったと感じている。また、同世代にも恵まれ、彼は交流を増やしていった。
 
 悪い意味ではないが、先輩が後輩の話を話すと大抵はある程度の謙遜と否定が入る。
「あいつは一生懸命やっているが…☆●◇」
 これは非常に日本的な儀式かもしれないが、学生の自分たちにとっても同様に行われていた。
 しかしながら、”たま”の話が出た時には、そういった謙遜が起きず、先輩方は皆、「あいつは頑張っている」と褒めていた。しっかりとそれ相応に認められている部分があったのだろう。
 
 彼は貪欲に様々なモノを受け入れ、そして、研鑽を積んだ。その道のりは大変なものであったと思うが、彼なりに一生懸命だった。同世代もまた彼を意識していた。それは技術的な話ではなく、どちらかと言えば、彼の心意気に惹かれる何かがあったからだと僕自身は考えている。
 
 その当時、彼が次期のDef Fect連盟長ではないか?と考えていたほどだ。同年代を牽引し、自らも歩みを進めようとする姿は素晴らしいものだった。

2 闘争は終わり無き。人の気持ちも終わり無き。

 2012年。2年生となった彼らを含め、Def Fect全体が浮足立っていた。「栃木vs群馬」というイベントが完全に定着し、それが新年度のスタート時から、イベントを見据えた練習が行われていたためである。
 イベントが始まり、早3年目。栃木メンバーを選抜する予選会も開催されることになり、より一層ライバル意識が高まっていった。ダンス部におけるレギュラーという考え方は栃木には存在していなかったが、予選会の開催によって、幸か不幸か落選する人、そして、選抜され闘うことの出来る人間が分かれることになったのだった。
 特にPOPPINはこの3年間。ジャンル別バトルでは無敗であり、自分たちも誇りを持っていた。先輩方は当たり前にしろ、後輩たちがその選抜枠を目指してもいいのだ。有力視されるのは4年生となるが、その上級生にすら噛みつくことを後輩たちは意識したていた。
   ”代表選抜会”が迫る中で自分で出来ることは、後輩たちを煽ることと色々なことを教えることだった。”煽る”というのは言葉的にそんなにいい言葉ではないかもしれない。ただ、初めて開催される選抜会のため、気の張っている子たちも多い。そんな悩みややる気を引き出すために話を聞いて回ることがとても大切に思えた。
 「4年生であっても選抜から落選する」
 この年のイベントが最後になる4年生にとって、身内同士の争いは気の抜けないものであったと思うし、何よりも彼らのプライドが落選させることを納得しないだろう。それは前評判から注目される実力者たちもそうであった。「順当にいけば…」そう考える者も多い。しかしながら、実力を発揮するために日々練習を重ねる者たちばかりだった。
 
 下級生にとって、この選抜会はある意味自分自身と向き合う機会であったと思う。自分が想像以上に牙のある人間だということを知る機会だ。出るからには、選ばれたいし、上級生に勝ちたい。しかし、”勝つために何が必要なのか?”
 自分の苦手とする部分。そして、気持ちと向き合う機会。そして、当日にはお世話になってきた先輩たちに全力で闘いを挑まねばならない。「栃木vs群馬」が開催されてから3年。このような空気になったのは初めてのことだったし、表立った殺気を大学生たちが纏ったことも初めてのことだったのかもしれない。
 
 ”たま”たち2年生たちは、そんな空気の中で、平静を装いつつも、身体の内から燃え上がっているものばかりだった。
 
 doocleの2年生に話を聞いてみれば、「選抜されたい。しかし、同年代に負けるのも嫌だ」と言っていた。選ばれることがあれば、その時点で同年代のトップである。そして、先輩たちからも一目置かれる存在となる。欲張りに見える感情かもしれないが、この闘争の中では、正義であった。ちなみに当時の2年生のPOPPERに話を聞いた所、3人が「たまには絶対に負けたくない!」と語っていたことを覚えている。
 
 僕自身はバトルDJとして、この選抜会に参加していた。
 全員の気持ちを知るものであったが、容赦はせずに選挙することを決めた。得意・不得意も全員知っている。しかし、皆平等に、そして、最高に踊れる選挙をすることを願い、パソコンをいじっていたことを覚えている。
 
 執行部となっている3年生たちは、運営に忙しさがあったが、己の代のイベントである。”4年生”が優勢かもしれない。そうであっても、ここで倒せなければ次はないかもしれない…どの学年よりも盛り上がっていたのかもしれない。
 
 たまに話を聞いた時、
「今日は勝ちたいですけれど、全力でやるだけです!」
 とても謙虚にそう言い放った。緊張は見られず、どこまで自分の力が通用するのか楽しみにしているようだった。
 
 この当時の本音であるが…2年生たちには選抜の可能性があっても、10%に満たないほどの確率だと考えていた。POPPINは層が厚く、その上、経験値が足りない。絶対ではないが、選抜に選ばれるためには…自分の可能性を信じるしかないと感じていた。
 
 様々な思惑の中…ついに選考会が開始されたのだった…

3 自分で踏み出すのか?風に身を任せるのか?

 選考会は、思っていた以上にピリピリとした雰囲気で始まっていた。
 開始前のアップ段階から笑顔よりも張り詰めた顔の方が多い。笑顔で「やぁ」と挨拶しあっても、目は笑っていない。全員が選ばれることを願っている。
 闘争心を高めるために目を閉じ、音楽を聞く者。バトル練習をして、既に闘いのモードに入っている者。鏡の前に立ち、自分のダンスを確認する者…それぞれが自分のやり方で気持ちを高めていた。
 
 選考会はLOCKINから開始された。
 アクティングを大切にするLOCKINが笑顔がない。表情は真剣そのもの。選考会は対面式で2人ずつ踊り、ジャッジ3人の総得点の高いものが選抜される。ジャッジのアイディアで勝敗もつけることになったのだから、より普段のダンスバトルのような雰囲気が出やすくなっていたように思える。
 選抜会自体の空気が初めてなのだ。そんな中で全員が空気を創りながらの対戦が続いていた。
 
 POPPINの選考となった。
 トップバッターは当時の3年生同士である。同じサークルの執行部同士が顔を合わせたのだった。どちらも選抜に選ばれるような実力者たちだ。
 曲をかける前に観客を見回すと、後輩たちは不安のような…真剣なような顔で先輩たちを見ていた。初回のバトル、これが選考の基準になり得る。そう考えたからこそ、こういった感情が表に出るのだろう。
 
 先行を取ったのは、doocleの”まさ”。選抜が濃厚とされる実力者である。自信もあるのだろう。落ち着いて自分のダンスをする。このピリピリとした空気を切り裂くような個の感性である。
 初回のバトルが終わった時に彼は…ゆっくりと観客席を見た。
 結果が当然であるように。
 
 2年生たちの意気込みは素晴らしいものであったが、バトルでのダンスは散々なものであったと記憶している。気持ちが空回りしているからだ。
 素晴らしい気持ちに反して身体が思うように動いてくれない…経験値が足りないのだ。先輩たちは周辺のダンスバトル・練習など3〜4年以上の研鑽を積んでいる。踏んでいる場数が違う。そんな中でやはり初めての空気、重圧の中で自由に自分らしくあり続けることは難しいことだろう。
 
 たまの順番が来た時、そんな2年生達を見ていた僕は、「たまも同じように緊張しているだろう…」と思っていた。案の定、目を見開き、そして、身体はこわばっているように見えた。
 しかし、それは彼の決意の現れでもあった。

4 心はクールに、身体はホットに

 たまは想像以上に善戦していた。
 緊張していた身体は、未熟なダンスではあるが、確実に音楽と共にあった。”緊張することは悪いことではない”あるアスリートの言葉である。適度な緊張は、自分自身のパフォーマンスを高める。気持ちと身体が一体となっていた。目の前の相手に熱意をむき出しにしながらも、自分の背伸びしない程度に踊っていた。
 見据えるのは選抜させることである。特異な環境、会場の雰囲気…飲まれる同輩たちを横目にしっかりと自分のダンスを踊りきった。
 
 この時点ではかなり有望である。残りの試合に命運は託されていた。
   POPPIN全員が踊り終えた時…僕自身は4人のメンバーは確定のように見えた。しかしながら、あと1人が誰になるのかは、ジャッジのみが知るような状況だった。
 上級生の気持ちも…下級生の気持ちも知っていた。全員が選ばれればいいのかもしれない。それは叶わぬことだ。あと1人がどうなるのか?それは何かの到来を予感させる期待であったかもしれない。
 
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 結果発表が始まると、会場は静寂に包まれた。
 名前が呼ばれて行く度に一喜一憂が繰り広げられる。涙を流すものもいた。当然のことと胸を撫で下ろすものもいた。そんな中、最後の一人に”たま”の名前が呼ばれたのだった。
 
 この時、僕は”たま”と落選した3年生の顔を見た。どちらも放心しているようだった。
 
 予選会が終わり…会場の撤収が始まった。
「俺、納得出来ないですよ!」
 3年生が俺に近づいて、そう言った。かなり怒っているようだし、結果に対して不満もあったのだろう。
「じんべえさん、どう思います?」
 4年生も自分に近づいて、そう言った。
 
 誰がどう不満をこぼそうが、それは”決まった”こと。そして、今回の件に関して僕自身が口を挟むことは出来ない。
 選ばれた者は、選ばれた重みを感じ、そうして、闘わなければならない。
 選ばれなかった者は、選抜された者に対して気持ちを託さなければならない。
 それがこの闘いの目的なのだ。
 撤収しつつも…後輩たちから話を聞く。アドバイスや気持ちのケアをする。それが会場にいた先輩の役目だと思った。出来れば全員と話をしたかった。選ばれた者に祝福を、そして、落選した者に心のケアを。それが今後の左右するこだった。
 
 ”たま”に声をかけてみると、まだ放心しているように見えた。
 すぐに帰らなければならないと言う。話も出来ていないし、彼とは話をしなければならないと思った。EXAの先輩ではないし、POPPINも彼には伝えることをしていなかったかもしれない。しかし、Def Fectの先輩として、選ばれた彼に祝福を伝えたかった。そして、彼の”放心”した心を取り戻すべきだと思った。
 
 彼を途中まで車で送り届けることにした。
 ここで本当のことを書くが、その日は宇都宮で用事があり、彼を送ることによって
 反対方向の道へ行く。しかし、それ以上に話を聞いてみたかったのである。
 
 ”たま”を助手席に乗せて、彼の家の方角へ。
「今日は…お疲れ様」
 なんて、社交辞令を交えつつ、彼と話をした。たまはいつもように礼儀正しく受け答えをしてくれた。しかし、彼の本心はどこか遠くにあった。少しずつ、彼の心に踏み込んでいく。心がどこなのか?何を考えているのか?
「俺、選ばれてよかったんですかね?」
 彼の家の近くになった時に、吐き出すように彼はそう呟いた。3年生から奪い取った席。それは誇らしいものでもあったが、優しい彼には重いものであったかもしれない。
「選ばれてよかったと思うよ。それを言ってはいけない」
 自分は、そう返した。闘いは勝敗がつく。1か0かの闘いでなくても、自分の心が敗者か勝者を決める。自分で勝ち取ったものに、自信と誇りを持ってほしかった。
 
 自分がそう諭すことに意味はなかったのかもしれない。EXAの先輩たちや仲間たちが彼を支え、誇りを取り戻してくれるかもしれない。しかしながら、最も年齢を経た者として、そして、最古からDef Fectを見た者として、彼を勇気づけたかった。自分の言葉は重い。だからこそ、憂いをなくす力があると思った。
 
 彼は静かに頷き、自分自身のことを確かめるように「がんばります」と言った。
 それでいいのだと思う。彼を送り届けた時に、その仕事は終わった。

5 その後

 選考会が終わり、各人がそれぞれの目標に向かって進み始めた。
 選抜されなかった2年生たちは、”来年”を見据えていたし、選ばれた者たちは決戦にむけて練習を続けた。初めての開催ということで気持ちを引きづった者もいた。そういった者たちのケアは先輩たちが行動していた。
 
 ”たま”たちの選ばれた者たちもルーティーン作りに励み、様々なことを試していったようだ。
 
 「下克上」それは、闘いの一端にしか過ぎない。次の闘いが、僕らを待っている。そうして、次の闘いでは、己が下克上されるかもしれない。選考会というシステムにおいて、常々起こることになるのだが、互いの研鑽が進むきっかけになったと今は考えている。
 
 決戦当日、”たま”は十分に力を発揮した。その年のPOPPINはまた勝利を収めることになった。来年の選考会が楽しみになった瞬間である。  
 自分自身、下克上されたことは何度かある。
 それは、一般のダンスバトルのイベントでのことだ。負ければハラワタが煮えくりかえるほどの怒りと後悔を得る。しかし、選考会という場での下克上はそんなマイナスの気持ちをはらみつつも、次につながる何かではないかと思うのだ。
 そんなある意味、気持ちのいいものを与えてくれる選考会が自分の時になかったことが少し悔しいように思う。
 
 ”たま”たちは次の世代の執行部となり、新たなDef Fectの時代を創った。同年代たちが火花を散らしたからこそ、昨日の敵は今日の盟友となったのではないかと今では考えるのだ。
 
 これからも「下克上」は続いていくだろう。その中に様々な気持ちを含めながら…
*1:じんべえは顔も老け顔で年齢も上のため、初対面では緊張して話されたり、萎縮されることが多かった。
 

Dancers, be ambitious

 本編に少しだけ記述があるが…創設当時は、Def Fectは大学生の枠組みを意識した組織ではなかった。専門学校生や高校生等、幅広い枠組みの中で若人たちの交流を目的とした団体であった。
   今回は、大学生以外の枠組みについてのお話を書いていこうと思う。

1 New Jack(新参者)

 ストリートダンスが認知され、様々な現場での教育活動が実施されている。幼稚園や小学校などの「キッズ」と区分される年代から50代ほどの大人までダンスに年齢の枠は存在しないような世界が当たり前になった。
 今では小学生に「ダンス、どれくらいやってるの?」と聞けば、「うーん、8年」と答えが返ってくるほどだ。筆者自体のダンス歴が10年だということを考えると、驚くべき年数だ。栃木県では大学生のダンサーたちが人数が多くなっているが…ダンスを大学生で始めること自体が、もはや遅い出来事になっているかもしれない。

 当たり前のことではあるが、大学生となる年代以前に”ダンス”に触れ合い、そして、続けている人たちがたくさんいるのである。
 
 Def Fectの設立当時…『New Jack』という高校生たちの集まりがあった。彼らはダンススクールで、また、学校の部活動でダンスを経験した者たちであり、”高校生”という青春をダンスに打ち込んだ者たちだった。
 現在でもそうであるが、”キッズ”という枠組みは中学生までである。高校生以上は大人と交じり合うことが年齢の区分だ。しかしながら、高校生という「キッズ」とも「大人」とも違う微妙な年代の中で、様々なことを模索していた。精神的も肉体的にも未熟で、法律の区分の中で出来ることと出来ないが分かれる。そういった難しい年齢区分であると思う。
 ストリートに飛び出し、大人と共に練習を繰り返す者もいれば、ダンススクールに通い、先生に教えを請う者もいる。そんな中で自分に出来ること、将来を見据えて様々な活動をしていた。
 練習場所の確保、仲間を見つけるなど…大学のサークルには分からない苦労もたくさんあったように思える。彼らはダンスにも飢えていたが、それ以上に同年代の理解者、そして、教えを請うことの出来る誰かを探していた。そういった中で、大学生という少し年齢の者たちが刺激し合える仲間になり得る可能性があったのだ。

 ここで敢えて書いておきたいが、高校生と大学生、18歳と17歳という年齢は日本の現状を見るに大きな溝があるような気がしている。大学生であれば許されるような風潮も高校生では許されない。もちろん、法律に違反する行為はいけないことではあるが…行動制限が大きく違っているような気がするのだ。
 
 今更ながら、当時の自分も高校生たちと交流を持つ場合は少し気を使っていたような気がしている。大学生とは身体の出来も違う訳だし、精神的にも未熟だ。経験出来ることも多くない。だからこそ、最善手が大学生の指導とは違うように感じられたからだ。
 そんな中でも創設に関わった当時の若人たちは、様々な者を吸収し、その中で足掻いていった。自分の将来、ダンス、悩みは尽きなかったかもしれないが、ゆっくりと栃木にとっても大きな存在になったように感じている。

2 JOKER

 そんな高校生たちの出会いの中で、今でも付き合いの続く彼がいた。大田原市に住み、国際医療福祉大とも関わり深いナオキ(仮名)である。
 正直な話、出会った当時は”危うい奴”だと感じていた。外見はイケメンである。しかし、傷を持つような、若さの中にコンプレックスがあるような…危険な男というよりは、腹の中に爆竹を抱えているような雰囲気。
 高校生の時であれば、誰しもそうであるが、リピドーがあって、変に自信があって、流行りに敏感で…そういった者をすべて併せ持ったような人間だったと思う。
   自分自身もコンプレックスなどのドロドロした感情を内包した人間である。なんというか同種の何かを感じとったのかもしれない。
 
 ナオキはその後、進学のために栃木を離れるが…当時のDef Fectの規約は大学生だけを対象にするものではなかったため、彼は「栃木vs群馬」においてもDef Fectの選抜選手として試合を果たしている。
 
 彼はいつもこう言っていた。
「仲間がほしい」
 彼の願いを僕は痛いほど理解出来た。それは単純に”ダンス友達がほしい”ということではない。同じように研鑽出来る、そして、様々なことを語り合える誰かがほしかったのだ。しかし、それはとても難しいことように思えた。

 彼はダンスに打ち込んだ人間である。同世代に彼のようにダンスを打ち込んだ人間が果たして何人いるだろうか?彼のように練習した人間がどれほどいるだろうか?
 これは、決して練習量がない人を貶している訳ではない。ただ、彼と同等の人を探すには、この地域では人が少なすぎるように思ったのだ。目的意識の違い、それを修正していくことも難しい。目線の高さの違い、目線の方向の違い…様々な人が様々な目的でダンスをしている。そんな中で自分と全く同じ方向を向き、同じ目線の高さを持つ人間を探すことは難しいことだ。
 彼は”ストリート”という世界に、そういった人間を求めた。
 それは正解であり、ある意味間違いのように感じた。全員がほぼ年上の人間であり、意識も高い。しかしながら、同年代の仲間を…その気持ちは決して満たされることはないから。

3 I Will Be Back

 彼が進学先から帰省してきた時、少し垢抜けたような顔になっていた。
 この小さな世界よりも大きな世界を知り、様々な経験をしたからだ。正直、尖って帰ってきたかと思った。しかし、そんなこともなく、若いながら…対応力を得た人間になっていた。
  
 時間が進み、彼の元々いた地域にも新たな人材が増えてきていた。
 同世代がいたのだ。少しずつ溶けこむ彼を見て、僕は少し安心したことを覚えている。
 
 Def Fectは、そんな彼を温かく迎えたと思う。
 同じダンスをする仲間として、先の世代とダンスをした者として…彼の知識や経験は非常に大きなものだったように思える。
 
 彼から「栃木vs群馬」の予選会に出てもいいのか?という相談を受けたのは、そんな矢先だった。Def Fectの規約がそうなっていたとは言え、ほぼ大学生の中に彼が入ることは、果たしていいのだろうか?
 一瞬、そんな考えがよぎった。しかし、よく考えてみれば、彼は最初から”Def Fect”なのだ。しかも、最古参だ。設立当初からDef Fectを知る一握りの人間だ。企画イベントを運営していた執行部も了承し、彼は予選会に参加し、HIOHOPの代表メンバーとして選抜された。
 
 なんだか嬉しくなった。
 仲間を欲する彼が同世代の舞台で、違うスタージで培ってきたものを融合し、一緒に踊る。そんな姿がとても誇らしかった。そして、一気に彼が成長したような気になった。
 予選会から本番に至るまで、彼は様々なことに尽力し、また、イベントが終了してからも彼の出身地域に影響を与えた。後輩の育成に取り組み、様々な話をし、たくさんのことを共有し合った。
 
 彼がDef Fectや栃木に対して、心を向けてくれることが本当に嬉しかった。”出身地域”、”チーム”…ストリートダンスにおいて自分の背景となり、力を与えてくれるものは数多く存在している。
 REPRESENT”(レペゼン)
 ストリートの文化においてよく使用される言葉だ。ダンスバトルの時でもショーケースでも、普段の会話でもよく出る言葉。「~を代表する」という意味。
 普段、聞きすぎて、身近過ぎて気がつかない言葉かもしれない。そんな「~を代表する」という意味は、身近にあっていい言葉なのだろうか?

 僕たちはいつの間にか、何かを代表し、何かを背景に持つ。しかし、その本当の重みを知るのは、一体いつなのだろう?
 
 ”大学生”たちは、よくも悪くも他地域からやってくる者ばかりだ。そして、この地でダンスを学んでいく。ストリートの文化に触れ、流行りや自分の信念の元に自分自身を構築していく。
 ふとした拍子に考える。自分はどこの代表なのか?”代表”と名乗っていい者なのか?
 
 栃木県の大学生のダンスシーンにおいて、最もそんな疑問が解決しづらいことなのかもしれない。そして、最も理解しがたいことなのかもしれない。
 Def Fectは懐が深い組織である。そんな中、彼の「仲間がほしい」という願いは、自分の居場所を求めるものだったような気がする。誰かに肯定されてこそ、自分が肯定するからこそ、そこに誇りは生まれる。
 彼が原初の時代に感じたことは、その時に「レペゼン」という初めて意味を成したことで成立したのではないかと思う。彼は故郷を代表する誰しも認めるダンサーになったのだと感じるのだ。

5 Love is doing small things with great love

 時間が過ぎ、New Jackと名乗っていた者たちは、もはや古参となった。
 栃木県を離れた自分のSNSに彼らの活躍が流れてくる。Def Fectと一緒の写真を載せながら。
 
 ここに書くことが出来なったが、イベントオーガナーザーやクランプの道を歩む彼女もNew Jackであったし、ブレイクダンスを教える彼もその世代だった。時間が過ぎ去っても彼らは挑戦し、そして、Def Fectを支えてくれている。
 彼らは、僕の気持ちを知ることはないだろう。それがとても嬉しい。
 打算も思惑もない中で、Def Fectの後輩たちと一緒にダンスをしてくれている。それが本当に嬉しい。
 
 現在では、高校生と交流することは少ないかもしれない。大学生という枠組みでの交流の方が遥かに多い。そんなダンスシーンの中で、”ストリート”という社会人と学生とが交流するように、そこまで時間を過ぎた訳ではないが…現在のダンスシーンはある意味、一つの在り方ではないだろうか?
 社会人と学生のシーン、サークルとクラブシーン…など現在でも在り方を模索することは続けられているが、そういった意味でまだ成長途中の栃木県のダンスシーンはこれからも変化していくだろう。
 
 単発的な変化を良しとせずに、中期的な目線で様々な交流が増えていけばこれからもたくさんの出会いが生まれると考えられる。高校生・大学生、双方は短期的な出会いかもしれないが、そういった”架け橋”となる人物が存在していることは、とても恵まれた環境なのだと思う。
 
 誰しも最初は”新参者”だ。
 新参者の願い、それはダンスシーンを動かす次の大きな力に変わっていくかもしれないなのだ。
 古参となった”New Jack”たちの活躍にこれからも期待している。
 

  掲載当時、このサイドストーリーに登場した人物たちは、既に栃木県のダンスシーンの核となり活躍をしていた(2016年)。現在、社会人となり、それぞれのプライベートを充実させている。もちろん、現在でもダンス活動を行っているものも多い。
 ただの昔話と思いつつも、今も続くDef Fectの後輩たちが僕たちの時代のように切磋琢磨し、楽しいダンスライフを送ってくれることを願う。